オランダあれやこれや

いろいろな人が書くオランダにまつわるエッセー。書き手、常時募集しています

文化の違いがあるからこそ その3 「黄金の夢」
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ノーベル文学受賞者のアルベルト・カミュは私の好きな作家です。「異邦人」や「ペスト」が知られていますが、それら代表作のひとつ、「転落」をここで取り上げてみたいと思います。1956年の作品です。すでに御存じのとおり、背景には60年前のアムステルダムの街が描かれています。

ガリマール(Gallimard) 社の著書から抄訳して、冒頭の部分をランダムに拾ってみます。

ジャン-バッティシュ・クラマンス(Jean-Baptish Clamence)はパリからやってきて、アムステルダムのユダヤ人街、世紀の犯罪(ナチスのユダヤ人狩り)が行われた直後の、その界隈に住む男性です。作品は一貫してこの人物の告白をモノローグで綴ったものです。パリでは著名な弁護士として富と栄光の身分にあった彼ですが、一転してアムステルダムに移り住み、もう何年も経ちました。そのため自分の本名は言えない、クラマンスというのは偽名であると白状します。いかつくて人相もあまりよくない外観とは裏腹に、気品高く優れた話術をもつ、弁舌家。酒好きで、ゼーダイク(Zeedijk)の船乗りが集まる酒場「メキシコ・シティー」が彼のお気に入り。ここにはクラマンスの告白を聞く、物静かで、金に困らぬ商人風の男がいます。薄暗い酒場のテーブルにはオランダの地酒、ユネーバー(jenever)が琥珀色にきらめきます。

クラマンスの語りです。
「ほら、港から汽笛が聞こえますよね。今夜はザイダーゼー(Zuyderzee)に霧が降りることでしょう。え、もうお帰りですか。お引き留めしてしまったかもしれません、どうぞお許しください。いやいや、ここは ”メキシコ・シティー”です。お勘定は、失礼に当たらなければ、どうか常連の私にお任せくださいませんか。ご招待できるなんて光栄なことです。私は毎晩来ます。きっと明日もここにいますよ。ですからその時には、喜んであなた様のオファーを受けさせていただきたい。お帰りの道はお分かりですか、、、それでは港までお送りしましょうか? そこからユダヤ人街をぐるっと廻ると、素敵な通りがあるんです。日中はトラムウェイが花を積んでいったり、ガチャガチャ騒がしい音楽も鳴りますが。あなたのホテルはこの近辺、ダムラック(Damrak)にあるとか、私はユダヤ人街に住んでいますから、さあ参りましょう」。

「もう何日も雨が止みませんが、幸いにこれがある。暗澹の中で唯一の灯りですよ。この液体の赤み帯びた黄金の輝きをご覧なさい」。「もともと街を散歩するのは好きですがね、夜は、ユネーバーのぬくもりに抱かれて、夜中は歩き続けて夢を見て、私は自分に語りかけ続けるんです」。

「そうそう、油を塗ったように光っている(雨で)敷石の上をゆく彼らの重い足音を聞いて、これまた大儀そうに、
(樽いっぱいの)黄金色のニシンや、枯葉の色をした宝石を扱う店々を出入りする彼らを見て、今晩もきっと店を出す、そう思っていらっしゃるんでしょう? あなた、オランダってのは夢ですよ。金色の夢、湯気か煙か。昼間はさらにもやもやで、夜更けから輝きを増すってやつですよ」。

「何をおっしゃいますか、船は結構な速度でゆくものです。だけども、ザイダーゼーっていうのは、死んだ海だ、いやそれに近い。海岸は真っ平らで、それが靄(もや)に隠れて、どこから始まりどこで終わっているのかわからない。目印がないので進んでいる速さがてんで見当つきません。これは航行ではなく、夢です」。

「あの背の高い黒い自転車を夢見がちに駆って、まるで喪に付したスワン(黒鳥)が、海を、運河沿いを、お国全土を巡っていくように、、、彼らは気の遠くなるほどの距離を、遥か彼方の島、ジャワにまで足を伸ばしたりね。そこから運んできた奇妙なインドネシアの神々に祈りを託したりする。彼らの窓がこれらで飾り付けられて、それ、我々の頭上にもそんなのがいくつか放り出されているじゃないですか。、、、で、オランダってのはヨーロッパの商業拠点というだけではないんですよ。海ってやつ、その海がね、チパンゴ(Cipango ,黄金の国、日本のこと)なんていう、人々が無我や幸福のなかで死を迎える島国にまで運んでくれるんですからね」。

「転落」の語りに酔い彷徨うのは、読者にほかなりません。

そのクラマンスですが、目の前の琥珀色のグラスに気をそそられながらも、私の次のような小さな体験談に耳を貸してくれました。

ふと、とんでもない色彩が横切ったのです。晩夏、ペダル裁きも軽やかに、ミュゼウム広場に面した大通りを、高いサドルの黒い自転車に乗った金髪の女性が走り抜けました。羽織ったコートのその色は、当時の町並みが持つ景観の中では脳裏に刻まれるほど印象深いものでした。この目を射るようなピンクは、周辺の地味な色彩に溶け込めずぽっかり浮き上がり、飛んでいるような風景を演出しました。


クラマンス曰く、
「色彩にまで挑戦するのは、内面に深く潜む心はみえませんがね。そこから発信される正真正銘の冒険心というか、”オランダ精神”とも呼ばれてる。大小様々な冒険に賭ける心意気ってのは、やはり夢にちがいない」。

                              2020年、7月 高橋眞知子