文化の違いがあるからこそ 「ダイナミックに」 市場の店先で
子どもが、人参をかじっているのを見かけます。今回はこの辺りから入っていこうと思います。
八百屋や市場、そこに子を連れたお母さんやお父さんがやってくる。お勘定のあたりで、売り子が微笑みながら
このようにいいます。「お譲ちゃん、これ、ほら!」。
とこれはその昔オランダで初めて出会い、強い印象を受けた光景の一つです。昨今、小売店の減少によって遭遇することが少なくなりましたがこの慣習、いや伝統といったらよいでしょうか、失われていません。
人と食のこのように素朴な場面は、まるでアスファルトの上しか歩かぬ都会人が、いきなり地べたで素足になったような、ゆったりと安らかな気持ちにさせてくれるものです。
肉屋の主人ならばこういいます。「坊や、ひと切れいる?」。すぐさま「ヤー!」と元気な答えが返ってくる。いつものことでわかっていますから主語をぬいたって、そこは以心伝心なのでしょう。数秒の沈黙と緊張に満ちた一瞬のわくわく。ガラス張りケースの後ろで店主がおもむろにスライスしたのはソーセージです。間髪入れず子を高く抱き上げる親。子どもの目が輝いています。ソーセージが人参よりも格段魅力があるためです。興味ふかいのは、これ食べてもいい、と親の目をみるケアフルな慎重派と、頓着なく我が道を行くタイプがあることなのですが、なんとやはり後者が圧倒的多数です。菜食主義の家庭の子には、切り身ソーセージがクッキーにもローリーポップ飴(棒付きの飴)にもなって、至れり尽くせりです。 「そのソーセージあとで焼いてあげよう、その人参はお家に帰って洗って食べましょうね」などのたまう親はひとりもおりません。
かの和蘭陀の黄金時代、いやもっとそれ以前から、人の暮らしはシンプルで、そしてダイナミックでありました。人参やソーセージからは飛躍しすぎではないかといわれそうですが、機会あればよく観察してみてください。自由でまっすぐなあの感じ。ラフな空気が漂ってくるのも間違いありませんが、紛れもなく彼らのダイナミズムの要素を窺わせるものです。繊細さなどはオマケに等しく、ましてやエレガンス、そんなものは無用の長物に捉えられているふしがあります。そこでもう一歩踏み込むならば、ここが大切なところですが。大事を成す時に彼らが発揮する綿密さや集中力は、これもまた彼ら特有のダイナミズムの中から生まれるものであるらしいということです。400年以上も昔、V.O.C 東インド会社で世界初の株式システムを築き、国民所得をヨーロッパのトップに乗し上げたオランダ人。何世紀にもわたり造船、干拓や土木・建築など稀なる技術で名を馳せてきたわけですが、今日の様子を見てください。今年は国内の企業社数が過去最大の200万社以上ということもですが、農業食品輸出国としては米国に次いで世界第2位とか。豆粒のようなこんな小さな国のどこにそんな?
人参とソーセージ、そんなシーンからでさえ、何かがちらと顔を覗かせるものです。
大きな体で小さな家に住むことを厭わず、窓際には念入りな気配りをもって花や置物を飾りつけ、それらがみな家の外側に向けられるのはなぜか。わざと傷物選んで商品を値引きして買うのは誰?ダイナミックの対極にあるようにおもわれがちなキャラクターも、全ては一枚コインの裏表。
困るよね、傍若無人で、とこう酷評されたら恐らく鼻先で笑ってすませる。そんなこと気に病んでいられるものか。「おれら田舎野郎は、、」こんな語り口も彼らの会話から耳にしますが、まちがっても「そうだね」など頷かぬよう。そもそも、水をかき出してまで住む土地を確保しようと神の目をむくような大それた野望を持つのみかそれを成し遂げた。その発想と実践力においても特異な歴史を持つ人々です。
田舎野郎とは、雰囲気がなんとなく伝わってきます。それならば、大地を知り、動植物を知り、気候を知り、天体を知り、みなが健全で本物の「田舎野郎」になれれば、現況の荒れた世界も変わるのではないか。ですから、人参に泥でもあれば上着の袖で拭うのがよろしいのです。
何時ぞやは、青物市場でお買い物のお母さんに手を引かれ、学校に上がる前とおぼしきチビちゃんが、金髪の前髪を風にたなびかせサラダの葉っぱを一枚ぱくついていましたっけ。おもわず、にんまりしてしまいました。
2020年6月 高橋眞知子