セージのコラムその3:”旅の途中” プロローグ

U.S.A.!

オランダに定住して30年、今年還暦を迎える自分は今も旅の途中にいるような錯覚を感じることがある。それはもしかしたら故郷の日本を遠く離れて生活しているせいなのかもしれない。それは心のどこかでここは終の住処ではないと感じているからかもしれない。

そしたらこの旅はどこから始まったのかと自問すると、すべてはアメリカから始まったのだと思う。

その頃テレビではソウルオリンピックが話題を席巻していたので、時は1988年の夏。復路オープンの航空券を握りしめて大阪伊丹国際空港を単身飛び立った。23歳にして初めての国際線は大韓航空でソウル乗り継ぎのロサンゼルス行き。生まれて初めての出国手続きに戸惑いつつも期待に胸が膨らんでいたのを今でも鮮明に覚えている。アメリカの入国審査のことはよく覚えていないが、そこで国内線に乗り換えてUSエアーでワシントンDCに。ここからは全く日本語が通じない世界に突入して、機内食の注文さえできずにひもじかった覚えがある。

写真を探していたら、当時のスケジュール帳が出てきた。8月19日に出発したのがわかる。

大学は三回生を終了した時点で1年の休学をすることを親には頼み込んでいた。休学前半はバイトに明け暮れて資金を確保、そして後半の最初の3ヶ月は語学学校に入ることにしていた。ワシントンDC近郊のウェストバージニアにある大学が併設する英語学習機関の夏期講習を既に申し込んであった。航空券の手配も、パスポートや査証といった渡航書類の準備も、学校の申し込みも代理店を通さずに全て独力でこなした。

親の敷いたレールに云々という話、実は自分もそれまではどっぷりハマっていたので、何が自分をここまで唐突に突き動かしたのか今でも不思議に思うことがある。

直接のきっかけはその前年に遡る。その頃大阪のとあるバーによく出入りしていたのだが、ある日そこに外国人の若い男女のグループがいた。彼らはアメリカから来ていたプロのアイススケーター達で毎年定期的に日本にやってきて各地を公演して回るとのことだった。

そのうちの一人となぜだかとても意気投合して、次の公演先の岡山にも訪ねて行ったりもした。まもなく彼らは離日して自国に帰って行った。それからも手紙のやり取りは細々と続けていた。日本人ではない友人と呼べる存在が出来たことは嬉しい反面、自分の英語力の無さを痛感していた。

原動力はそこだった。とても単純ではあるが、言葉ができれば、世界が何倍にも広がると知った瞬間だ。そこから、親が敷いてくれたレールをどんどん踏み外すようになってしまったのだ。

ワシントンDCに降り立った時、学校の入学手続きがある日まで、まだ数日の猶予があったので、その間を生き延るのが喫緊の課題。まずはDCの街なか(どこが中心地さえ知らなかったが)に宿を取った。半年分の荷物はスーツケース1つに無理やり詰めて来た。部屋に入ると不安と恐怖で堪らなくなった。生まれて初めて一人でホテルにチェックインして、しかも右も左もわからない、言葉さえ通じない異国の地。歯をガタガタ言わせながら、なぜか祖母の顔を思い浮かべて嗚咽した覚えがある。

それでも若いということは怖いもの知らずなのかもしれなくて、翌日には結構ケロッとして街の探索に出掛けた。当時日本では見かけなかったBurger Kingではメニューに書いてある“Whopper“が読めずに、“フーッパー“、“フーッパー“と連呼してた記憶がある。カフェのテイクアウトでオレンジジュースのパッケージを買った時には、“Shake me”と書いてあるのを指さしながら、若い女性の店員さんが子供に諭すように、容器をよく振るジェスチャーを笑顔でしてくれたのに、「結構、親切やなぁ」と変に感動した覚えもある。

入学手続きで初登校。映画によく出てくるような青々とした芝生の広がるキャンパスにはリスが走り回っていて、キラキラした太陽の光が眩しい中、これから始まる未知の体験にドキドキした。

が、悲劇は突然やって来る。事前にやりとりしていたレターで学校の寮に入ることを希望していたつもりだが、うまく手配がなされておらず、いきなりの宿なし宣言。突然この異国の地で自力で住処を探すのはさすがにレベルが高く、心配した担任の先生のお宅に数日泊めてくださって、その間に割安なウィークリーのモーテルを見つけて移動。そこから学校の掲示板に貼られていたルームメート求むの告知を何件か当たって、ようやく落ち着ける場所を確保するのに1週間程かかっただろうか。モーテルは見るからに怪し気な雰囲気で、夜中に近くの部屋から女性の悲鳴が聞こえてきたり怖い思いをしていたので、人生初めての一人住まいとなる小さな部屋は本当にオアシスだった。

英語学校は3ヶ月程通った。ただ単に教科書を読んだりするだけではなく、テキストを読んで、グループでディスカッションして、発表して、書いて、話して、聞いて、考えてと正にフル回転の毎日だった。タイプライターでレポートを打つことも初めて学んだし、テキストの一つは“地球の温暖化“がテーマになっていて、それまで聞いたこともなかったトピックを初めて英語で学んだことも新鮮だった。

担任の先生や友人宛の書きかけの手紙も出てきた。

クラスメートは世界各地から集まっていて、アジア、中近東の学生達がいろんなトピックで討論するときに、バックグランドが違うことに考えさせられることも多くあった。中近東のどこかの国の出身の女性が、車の駐禁の切符を切られた時の話をしていて、言い逃れのウソをついたと自慢気に発表するシーンがあって、みんなから非難轟々になった時、彼女が真顔で「お金払うより、ウソついて通るならそれでいいでしょ!」と反論したのには、特にアジア勢が中心にやっぱり嘘はダメだよって話になったりもしてた。

そんなこんなで夏の1期はあっという間に終了した。クラスメート達はそのまま次のセメスターを続ける人、別の学校に移る人、帰国する人と、散り散りになっていった。自分は帰国して日本の大学に復学するまでの3ヶ月はそこを拠点にお金の続く限り旅をすることに決めた。

こうして前回、グラン・カナリアの回で触れたモロッコに話は続くのであるが、この時のアメリカ滞在では他にもラス・ベガスとかその後に自分の人生にいく度か関わってくる街との出会いもあった。それはまたいつか別の機会に。

日記も書いてたなんて、すっかり忘れてた。

(文と写真 by セージ)