たまにわコラムその7~テニスなぞかけ~

テニスにまつわるコラムをまじかながお届けしていきます。

一般になぞかけといえば、「テニスとかけて裁判ととく。そのこころは・・・どちらもCourt(テニスコート・裁判所)で行う」とか、「テニスとかけて会議ととく。そのこころは・・・どちらもonline(ライン上・リモート)が好ましい」などのような言い回しを指します。
今日はそのような文字通りのなぞかけというわけでなく、テニスとの共通点を感じる物事を取り上げようという趣旨ですので悪しからずご了承ください。

その1:オランダテニスと将棋

最近、日本でも高校生棋士の大活躍により将棋への注目度が高まっていますが、かねてよりテニスと将棋には多くの共通点があると感じていました。
・1対1で交互に打ち合う(指す)
・引き分けがなく勝敗が決するまで続く
・自分なりの「型」(シコラーやサーブ&ボレー、矢倉戦や棒銀戦法など)が出来上がっていく

そして、ここであえてことわりをいれている「オランダテニス」が持つ将棋との共通点とは、「感想戦」があることです。
プロの将棋で対局後に対戦者同士が行う振り返りは感想戦と呼ばれますが、オランダテニスにおいて感想戦に相当するものとは、当コラムでもたびたび触れる試合後のドリンク文化のことです。
あの時間はまさに感想戦そのもので、互いの健闘をたたえ合うと同時に勝負所となった場面を思い出しながら相手の視点でも振り返りができるというとても貴重な機会だと感じます。
余談ですが、多少の位置付けの違いはあるものの、ゴルフ(コンペ)のあとのパーティーもある意味で感想戦のような意味合いがあるように感じます。

その2:テニスとコロナ禍

いまや誰しもが程度の差はあれ「新たな日常」を強いられていることもあり、「コロナに克つ心」とか「しなやかに生きる」と銘打っては、あるべき心の持ちようが世の中で取り上げられている印象があります。

わたしはもとより、テニスと日々の生活にはある種の共通点を感じています。
日常生活で一日を終えて睡眠をとりまた新たな一日を過ごしていくように、テニスでも1ポイントごとにインターバルを挟んでは気持ちを切り替えながら臨む必要があります。
試合中に一つとして同じポイントは無いという点は人生の一日々々とも共通しますし、テニスで勝負所となるポイントがあるように、人生において特に大事な日というのも存在することでしょう。
そんな思索から発展し、コロナ禍における気の持ちようは、わたしなりに是とする試合中の気の持ちようを応用することが実は大いに役に立つのではないかと思い至りました。

「適度な緊張感を持つ」
→テニスにおいて萎縮しないため、あるいは反対に雑なプレーをしないために適度に緊張することはよいことだと考えています。
コロナ禍でも同様に大切と思われる“過不足なく正しく恐れる”ことに通ずるものがあります。

「勝つと思うな、思えば負けよ」
→上記の緊張感の反対のような話ですが、テニスに限らず勝負事には“戒め”の格言を探せば枚挙にいとまがありません。
野球でも「スパイクを脱いで下駄を履くまで分からない」と言われたりします。
人間は緩む生き物であることを経験が教えてくれているのでしょうが、一方でドストエフスキーが残したとされる「人間は何事にも慣れる存在だ」という言葉もあります。
どうやら緩むことと慣れることは似て非なるようで、なかなか難しいものです。

「自分の思い通りにいかない」
→そもそもテニスは相手や環境があって成立するものであり思い通りにいかないことが大前提であるはずですが、コロナ禍を含めた人生や日常だってそもそもそんなものであることを、わたしも自らに言い聞かせることが増えたかも知れません。
最近、目にすることが増えた “自粛警察”も“同調圧力”も、根は同じであるように感じます。
形は違えど、周囲を自分の思い通りにコントロールしたいという人間の潜在的な部分が表れているような気がしてなりません。

最後に、テニスとコロナ禍のなぞかけをもっともよく表してくれるのは、わたしが好きなテニス小説「青が散る」の中にあるくだりです。
「慌てても、焦っても、マッチポイントは近づいてこなかった。取ったり取られたりしながら、たんたんと積み重ねるしかないのだった」