翻訳者として活躍する國森由美子さん

翻訳者として活躍する國森由美子さん

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ルイ・クペールス「オランダの文豪が見た大正の日本」を翻訳した國森由美子さんにインタビューしました。この本は2019年10月に発刊されたばかり。多くの写真とともにオランダ人が見た大正時代の日本の様子が描かれています。國森さんは音楽家でもあります。

P: オランダにいらっしゃったいきさつについて教えてください。

東京で音大を卒業した後、ハーグ王立音楽院で教えていた世界的に有名な演奏家のもとで勉強したくて、オランダ政府の給費留学制度があるというので試験を受けたのですが、幸いにも合格し、KLM往復航空券と確か10ヶ月分の給費をいただいてオランダに来ました。そして、その後も結局オランダに居続けることとなり、留学しっぱなし人生になってしまいました…

P: 音楽家と翻訳家をどうやって両立させているのですか?

わたしなどは、両立させているうちには入らないと思います。演奏家ディプロマを取得して音楽院を卒業したとはいっても、年じゅう演奏旅行で世界中をとびまわるような生活ではなく、日々の暮らしの中で時おり室内楽のコンサートをしていた程度ですし、翻訳に重きをおいている現在では、自宅周辺でほんの少しピアノを教えるくらいにとどめています。翻訳というのは、実はひじょうに孤独な作業なので、ときおり、音楽のレッスンを通して生徒たちと直に接したりするのは、むしろ、精神的なバランスが取れていいような気がしています。また、翻訳と音楽にはどこか共通点があるように感じることも少なくなく、オランダに腰を据えて、音楽と翻訳の両方に関わりながら暮らすことができるのは、ありがたいことだと思っています。音楽を通じて得た知識を翻訳に生かすこともできますし、現に音楽関連の翻訳を依頼されることもあります。

P: オランダの本の翻訳に携わっているそうですが、これまでに翻訳し出版なさった本についてお聞かせください。

2017年にヘラ・S・ハーセ原作『ウールフ、黒い湖』(作品社)を翻訳出版しました。原著Oeroegは、第二次世界大戦後の1948年、オランダ全国読書週間の際に発表された小説つまりフィクションです。原著者ハーセ自身の生まれ育った旧オランダ領東インドを舞台に書かれています。ハーセは、インドネシア独立戦争が勃発しオランダが再植民地化を目的に同地に軍隊を派遣したのに大きな衝撃を受けて、この物語を一気に書きあげたそうです。オランダ植民者の息子である主人公の「ぼく」と現地の少年「ウールフ」との友情と別れを描いた物語で、オランダ近代文学史上、ポスト・コロニアルの作品の中でもひじょうに重要な、珠玉の名作として広く知られています。ハーセはとても美しい文章を紡ぎだす大作家で、わたしはこの小説の、どこか音楽を奏でているかのような文体にも魅力を感じていました。そう思ってから形になるまで、かれこれ10年近くかかりましたが、無事、翻訳刊行が実現し、邦訳も評価されているようで、嬉しく思っています。

P:今回、オランダの文豪のルイ・クペールスのNipponを翻訳されたそうですが、本の内容と、これについてのご自身のご感想。そして翻訳で一番たいへんだったところは?

なにがというよりも、いざ翻訳を手がけてみるとすべてが大変だったというのが正直なところです(笑)。 2019年10月末に刊行されたこのたびの訳書、原題はNippon(1925年刊)、邦題は『オランダの文豪が見た大正の日本』(作品社)となりました。ルイ・クペールスは、ハーグ生まれの文豪としてハーグ市も誇りにしているほどですが、実は前出のハーセも尊敬していた作家でもあり、ハーセ同様、旧オランダ領東インドと深い関わりがありました。クペールスの父親は、東インド植民地政庁の高級官吏を引退した後、ハーグに居を構えていた人ですし、母親は東インドに代々続く名家一族の出でした。作家のいとこに当たるクペールス夫人のエリーサベトは、東インド生まれです。クペールスは、ハーグの新聞「ハーグポスト」紙の依頼により、同紙の特派員として1922(大正11)年の3月末から7月まで日本を旅し、自らの目で見た日本の偽らざる印象を旅先から同紙へ寄稿しました。その一連の紀行記事は、1922年9月から翌23年5月まで「ハーグポスト」紙に連載された後、1925年に書籍として刊行されました。今回の翻訳はその初版本をもとにしています。クペールスの文章は、日本でいえば、夏目漱石、芥川龍之介というような時代つまり100年ほど前の古めかしいオランダ語で綴られています。今ではもう使われなくなったスペリングや言いまわしもあり、当時のハーグ上流社会の共通語だったフランス語からの借用語や、さらにはクペールス自身の造語も含まれています。また、現代の日本とはかなり異なる大正期の日本の事情についてもあれこれ記されていて、クペールスが旅行中携えていた英語の日本旅行ガイドブックにある記述と照らし合わせたりしなければ、なにがなんだかわからないような事柄もありました。体調不良で途中でとうとう重病に罹り7週間も入院する事態に見舞われたりで、不機嫌な記述もままあるのですが、今回、邦訳を刊行するにあたり、初版に掲載された二十数枚以外の古写真も多数入っていたりもするので、資料としても価値のある書物になったと思います。写真群は、クペールスが日本から持ち帰ったもので、今はハーグ市立古文書館にコレクションとして所蔵されています。これまでオランダで催されてきたクペールス関連の展覧会や文芸雑誌の記事上など、さまざまな機会に紹介されてきた写真でも、撮影場所の不明なものが何枚もあったのですが、今回、日本側のホテル関係者の多大なご協力により、かなり詳細が判明しました。これは大きな収穫でした。また、クペールスは、東京では当時の公使(大使館はまだなく公使が駐日オランダ代表)の招きで公使館に滞在していて、それは現・オランダ大使館のある同じ場所です。そんなこともあり、去る12月にオランダ大使公邸で催していただいた刊行記念プレゼンテーションの際には、大使がスピーチをしてくださり、公使夫妻や広報・文化担当官など現大使館員の方々にもとても喜んでいただきました。

P: よかったらご家族について、お話をお聞かせください。 ご主人と息子さんがいらっしゃるのですよね。

主人は、もう定年退職しましたが、ライデン大学日本学科に長年勤務していました。また、ハーグ大使館を校舎としてお借りしていた当初から(現ハーグ・ロッテルダム)補習校でも子どもたちに国語と数学を教えていました。昨2019年3月、勤続42年で退き、在外公館表彰を受けました。教師が天職のような人だと思います。今はだいたいのんびり気ままに家に居て、庭いじりをしたり(わたしたちは二人とも草花好き)、ごはんができるのを待っていたり(笑。食事を作るのは専らわたし)、ワインを飲みながらネットで好きな囲碁やなにかを気ままに見て楽しんでいたりしています。もともと、大阪外大独文科卒、なにかひとつ、ゲルマン語を極めたいと思い、オランダ語・オランダ文学を勉強しようとライデン大学に来たのが、途中で引き抜かれ日本学科の教師になってしまったと聞いています。そもそもがそんな語学の専門家の主人なので、大学や補習校の仕事に忙殺されなくなった最近では一緒に翻訳の仕事をすることが増えました。また、今回のクペールスなどは、前述のように強烈に難しく、見るに見かねて協力してくれたりもしました。初稿ゲラ〆切前、実は愛猫を病気で亡くしたり、わたしが目に支障をきたしたりしてなかなか辛い日々が続いていたのですが、主人はいつも(物静かに)支えてくれ感謝しています。 わたしたちのひとり息子、潮音(しおね)はライデン生まれライデン育ち、オランダ現地の教育を受けながら補習校にも小・中9年間通い、今は日蘭バイリンガル、英語も入れればトリリンガルとして、通訳・翻訳・日蘭間の各種コーディネーターの仕事をしています。

P: オランダについて。日本と一番違うところは? 好きな点は?

うーん…難しい質問です。一番かどうかは自分でもわかりませんが、社会のやさしさ、厳しさがそれぞれ違うと感じることがよくあります。長年オランダで暮らしていると、どちらがいい悪いというよりも、ただ、違うのだと思うことが少なくありません。 好きな点も、いろいろありますが、例えば、見知らぬ者どうしでも、ふと目と目が合えば、年齢性別に関わりなく誰でもちょっとにっこりしたりするでしょう? ああいうのは、心が和むし、いいですよね。あと、困っている人がいれば、知らんふりして通り過ぎたりせずに、決まって誰かがすすんで手を差しのべますよね。そんなのもオランダの好きなところです。

オランダの文豪が見た大正の日本